出生~幼稚園時代
1972年11月27日に母の実家(西宮市甲子園一番町)近くの病院で誕生し、鉄鋼営業マンの父と専業主婦の母、2歳年上の兄、2歳年下の弟の5人家族で育ちました。
幼少の頃の住まいは西宮市熊野町(縁あって、後に3度、西宮市熊野町に帰ってくることになります)、武庫川幼稚園に入園し、父の仕事の関係で千葉県八千代市に引っ越し、八千代台幼稚園を卒業しました。とにかく外で遊ぶことが好きな子供でした。
小学校時代
八千代市立八千代台小学校に入学後、父の仕事の関係で、西宮市立瓦木小学校に転校し、さらに加古川市立平岡北小学校を卒業しました。
小学校時代は少年野球、プラモデル作りに夢中でした。
中高校時代
中学受験を経て白陵中学に入学しました。入学式から軍隊のような規律の厳しさに驚いたことをよく覚えています。野球部かサッカー部、どちらに入るか迷ったあげくサッカー部に入部しました。弱小サッカー部で、厳しい練習ではなかったですが、3年生の時に1勝したのがいい思い出です。白陵高校サッカー部では1年時からレギュラーで出場し、東播磨地区3部ながら、高砂市長杯での優勝が思い出です。
高校1年生の秋、友達10数人と私服で外出したことが校則違反(外出するときは制服を着て出かけなければいけない校則があった。)となり停学処分になりました。何故このような理不尽な校則が存在するのか、学校に対して違和感を感じたが、どうすることもできず、悶々とした日々を過ごす。こらえ性がないと思われるかもしれませんが、軍隊のような理不尽な校則に対する反抗心、このまま校則を守って「長いものに巻かれる」生活から脱却し、自由に生きたい欲求から高校中退を決意しました。この頃、規則を作る側に行きたいと思っていたのかもしれません。時間をかけて両親を説得し、高校1年生の12月に中退しました。中退後、アルバイトや予備校を通じて色々な素晴らしい出会いがありました。その時の友達とは今でも付き合いがあり、不器用な生き方かもしれませんが、その時経験したことが人としての深みを得ることができたのではないかと思ってます。今でも後悔した生き方ではないと胸を張って言えます。
大学時代
大学検定資格を得て、19歳(1年浪人に相当)で近畿大学農学部に何とか入学することができました。
西宮市熊野町に戻ってきて、そこから近畿大学農学部がある奈良市富雄まで1時間30分かけて通いました。農学部のサッカー部に入り、天皇杯予選を兼ねた奈良県大会で優勝できたことが思い出です。
また、2年生の夏休みに1か月半のアメリカ留学を経験し世界の広さを体験しました。3年生から園芸第一研究室に所属し、物を造ることにより社会に貢献したいという思いから造園業界に進みたいと思っていました。
4年生の時に西宮市に本社のある阪神園芸㈱にインターンシップとしてお世話になりました。
社会人時代
大学時代にインターンシップで阪神園芸株式会社にお世話になった経緯から、そのまま就職して希望する造園部工事課(公園を作ったり、街路樹を植えたりする部署)に配属されました。朝早くから夜遅くまで、休みも無く、馬車馬のように働いた時代です。チームで物を造る楽しさを実感し、自分たちで作った公園で子供たちが楽しそうに遊ぶのを見たときは、それまでの苦労が報われる気がして、どんどんと造園業が好きになりました。
しかし時代は公共事業を減らし、福祉、教育に財源を回す時代でした。(今思うと政治が世の中を動かしていました。)公共事業中心だった阪神園芸も民間業務にシフトしていきました。が、全体的に受注数は減っていきました。入社12年目、造園部工事課係長の時に運動施設部(主に甲子園球場を管理する部署)に欠員が出たから造園部から人員を異動する話がありました。インターンシップの時に運動施設部にはお世話になってたこともあり、造園業に明るい未来を感じなくなってもいたので、自ら手を挙げ、異動となりました。
土木工事経験の豊富だった僕は、異動した年(2014年)に行われた「阪神甲子園球場グラウンド改修工事」に現場代理人として従事し、内野黒土の入れ替え、外野芝生の張替え工事を行いました。数年間、「甲子園球場の神整備」で有名な阪神園芸の技を研鑽し、自ら役員を説得後、新しい部署「スポーツ施設部」を立ち上げました。甲子園球場の「神整備」を商材に、阪神電鉄、阪神タイガース以外の顧客からグラウンド工事やメンテナンスを受注するための部署です。思惑通り、甲子園球場の技術と知名度は目を見張るものがあり、立ち上げ数年は、楽天イーグルスのホーム球場の年間管理、追手門学院小学校改修工事、ヴィッセル神戸の練習場の改修工事、南三陸町平成の森野球場改修工事、塩野義製薬ソフトボール場新設工事などの大型工事をいくつか受注することができ、大きな功績をあげることができました。また、社内の「Hankyu Hanshin Group Award」という賞レースにおいて、追手門学院小学校改修工事が佳作に選ばれたのは思い出深いです。
あっという間の25年間で、掛け替えのない時間でした。